とにかく長い、長〜い年月を醤油醸造を生業に、歴史を刻んできた一族の話です。激しく変化する現代にあって、金科玉条の「効率」や「成長」を目指さず、年月が育んだ「味」を守ることを選択。コモディティ化が進む製造業の中で今、まさにアイデンティティの塊のような「田舎醤油」に、再びスポットが当たり始めています。会社の名前は「ヨネビシ醤油」。一族の名は、髙和家。パンフレットによれば一族の発祥は、保延1年(1135年)、およそ900年前に遡ってしまいます。

髙和家が醤油作りを始めたのは寛政12年(1800年)。安政2年(1854年)に、茨城県常陸太田市内堀町に江戸蔵を建設し、以来ここを拠点に昔ながらの製法で醤油を作り続けています。現当主・髙和剛さんは髙和家33代目、この地に来てから数えても、米菱醤油の7代目です。
「好きで始めたわけじゃないです。老舗ののれんは守っていかなければならず、一生懸命ひたすら走り抜いてきただけ」。むしろ「(家を継ぐのは)いやだった」と話す剛さん。営々とつながってきた先祖からの歴史は、とにかく重く、71歳になった今、ゴールは死ぬ時、と言いながらも、やり通してきたことへの安堵感が漂います。「バトンを渡された人が同じように走れるか、今までやってきたんだから、やれるはず…」。考えても仕方がないとは思うものの、そんな心配も頭の中に去来します。

江戸時代の蔵。先の地震にもびくともしなかった太い梁。下はでき上がった醤油を保存しておくタンク

代表取締役の髙和剛さん。髙和家のバトンを受けて、バトンを渡す「一走者です」

若い頃は、「変えたい」とチャレンジしたこともあったそうです。自ら乗り出して父親とは違う販路を開拓、販売拡大に努めたことも。「でもね、うちの醤油は安く売れないのよ」。蔵そのものしかり、道具、製法まで、古いものを古いまま使って作ることを止めない限り、時流に乗った商売は難しいというのが現実でした。結局「高っぱりでいい、売れなくたってなんだってこの味だよ、と。殿様商売だって、馬鹿にされてますよ」。頑固に、我がまま放題に生き抜くほかないと、徐々に道が見えてきました。
とはいえ、この道を揺るぎなく歩んできたわけではありません。「揺れる、ブレるの連続だけど、不思議と元のやり方に戻ってくる」。いいものを作っていけばいい。ただ作っていればいい。めまぐるしく変化する時代だからこそ、変化に翻弄されないために「守る」。焦らず続ける難しさを身にしみて感じています。

次走者・髙和進さん。「変えないものは変えない。変えたほうがいいものは変える」

仕込み蔵の中には直径3m、高さ3mの、大きな杉の木桶が40本並んでいます。杉の木質は軟らかく、木目の中に微生物が住みつきやすい。乳酸菌、酵母菌など種類も数も膨大で、「それらの菌が切磋琢磨、競争を」。ここで6〜8ヶ月間醗酵、熟成させます。2度仕込みならさらに6〜8ヶ月。うす塩の甘みのある米菱の醤油が誕生します。工場見学に訪れた人々からは「(この蔵は)深みのある、いい匂いがしますね。懐かしい気持ちになります」と言われるとか。明治時代末期に開発された「小麦炒り機」もまだ現役です。焼き砂でゆっくり焙煎し、焦げ目をつけ、バーボンウイスキーのような香りが立ちます。コクのある「おし味」、深みのある「赤み」はこの工程で生まれます。
慶応3年(1867年)のパリ万博で、銅碑を受賞した精製醤油「ひな菊」が、平成8年に当時の製法のまま復活しました。工場の中にある直売所では、この「ひな菊」始め、同社の製品を購入することができます。

こんな大きな杉の木桶の間を縫って工場見学。「懐かしい香り」と見学者

たびたび補修が必要な土台の石。笠間市稲田から御影石を取り寄せている

木桶群の脇の階段を上ったところの風景。着々と醤油が醸造されている

明治時代から使っている「小麦炒り機」。一番古い機械だが、未だ現役

常陸太田の古い街並みに溶け込んだ蔵群。左は大正の蔵、右は平成の蔵

工場内には直売所もある。うす塩醤油の「米菱醤油」から精製醤油「ひなぎく」まで